🍃秋の田の かりほの庵の とまをあらみ わが衣手は 露に濡れつつ
〜秋の田んぼの仮小屋の苫(とま)の編み目が粗いので、私の袖は露にぬれている。
【天智天皇てんじてんのう】
第三八代天皇(在位六六八‐六七一)。舒明天皇の子。母は皇極天皇。名は葛城。中大兄皇子ともいう。中臣鎌足と謀って蘇我氏を滅ぼし、孝徳・斉明両朝の皇太子として大化の改新の諸政策を行なった。斉明天皇崩御後も皇太子のまま称制し、百済援助の軍を派遣したが、白村江で唐・新羅軍に大敗。以後、都を大津に移して即位し、はじめて戸籍(庚午年籍)をつくり、また漏剋(水時計)をつくって時刻を知らせ、成文法の最初である近江令の制定を行なう。推古三四~天智一〇年(六二六‐六七一)
精選版 日本国語大辞典より引用しました
両親ともに天皇っていうのも驚きです💦 結構 ロックなお母様だったのね(^◇^;)
天智天皇は、少納言👩の住んでいる大津にとてもゆかりの深い方です。
西暦645年、乙巳の変(いっしのへん)
中大兄皇子なかのおおえのおうじ(のちの天智天皇てんじてんのう)が、中臣鎌足(のちの藤原鎌足)らと共に宮中にて蘇我入鹿を暗殺。蘇我蝦夷と共に蘇我氏を滅ぼしました。
翌年、大化改新の詔をはっ。公地公民の制・行政組織と交通制度・戸籍、徴税、班田収授の法・田調などの税制の四箇条を制定。
大化の改新については、こちらのブログがとてもわかりやすいのでご覧ください。
少納言👩は、大津が大好きなので、色々動画を貼り付けちゃいます💖
白村江の戦いに敗れたのもあり、国防の観点からも重要な遷都でした。
660年 5月、中大兄皇子(天智天皇)が初めて漏刻をつくって時を知らせ、
671年 4月25日(現行暦の6月10日にあたる)、漏刻を新天文台に据え、鐘や鼓(つづみ)で時を報じたと『日本書紀』に記されています。
漏刻ろうこくとは何ぞやですが、時計で発明された水時計です。
近江神宮では、漏刻祭ろうこくさいが行われています。
こちらに漏刻ろうこくの画像あり↓
書くことが多すぎて収拾つかなくなってきた(´;ω;`)
ぜひこちらで天智天皇と大津の関わりをご覧くださいね🌟
🌟おまけ🌟
額田王ぬかたのおおきみ
天皇二人に愛された額田王と大海人皇子の大人の恋の歌がこちらです。
ちょっとドキドキの大海人皇子の返歌ががこちら🌟
すみません、濃すぎて書ききれませんでしたっ(`・ω・´)
おいおい記事を書いていきます🌟
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