源氏物語 第5帖 若紫(わかむらさき)
【古文】 「書きそこなひつ」 と恥ぢて隠したまふを、 せめて見たまへば、 「かこつべきゆゑを知らねばおぼつかな いかなる草のゆかりなるらむ」 と、いと若けれど、生ひ先見えて、 ふくよかに書いたまへり。 故尼君のにぞ似たりける。 「今めかしき手本習は…
【古文】 「少納言がもとに寝む」 とのたまふ声、いと若し。 「今は、さは大殿籠もるまじきぞよ」 と教へきこえたまへば、 いとわびしくて泣き臥したまへり。 乳母はうちも臥されず、 ものもおぼえず起きゐたり。 明けゆくままに、見わたせば、 御殿の造りざ…
【古文】 君は何心もなく寝たまへるを、 抱きおどろかしたまふに、 おどろきて、宮の御迎へにおはしたると、 寝おびれて思したり。 御髪かき繕ひなどしたまひて、 「いざ、たまへ。宮の御使にて参り来つるぞ」 とのたまふに、 「あらざりけり」 と、あきれて…
【古文】 「宮より、 明日にはかに御迎へにとのたまはせたりつれば、 心あわたたしくてなむ。 年ごろの蓬生を離れなむも、さすがに心細く、 さぶらふ人びとも思ひ乱れて」 と、言少なに言ひて、 をさをさあへしらはず、 もの縫ひいとなむけはひなどしるけれ…
【古文】 「何か、さしも思す。 今は世に亡き人の御ことはかひなし。 おのれあれば」 など語らひきこえたまひて、 暮るれば帰らせたまふを、 いと心細しと思いて泣いたまへば、 宮うち泣きたまひて、 「いとかう思ひな入りたまひそ。 今日明日、渡したてまつ…
【古文】 いと忍びて通ひたまふ所の道なりけるを思し出でて、 門うちたたかせたまへど、聞きつくる人なし。 かひなくて、御供に声ある人して歌はせたまふ。 「朝ぼらけ霧立つ空のまよひにも 行き過ぎがたき妹が門かな」 と、二返りばかり歌ひたるに、 よしあ…
【古文】 「さりとも、かかる御ほどをいかがはあらむ。 なほ、ただ世に知らぬ心ざしのほどを見果てたまへ」 とのたまふ。 霰降り荒れて、すごき夜のさまなり。 「いかで、かう人少なに心細うて、過ぐしたまふらむ」 と、うち泣いたまひて、 いと見棄てがたき…
【古文】 「何か、かう繰り返し聞こえ知らする心のほどを、 つつみたまふらむ。 その言ふかひなき御心のありさまの、 あはれにゆかしうおぼえたまふも、契りことになむ、 心ながら思ひ知られける。 なほ、人伝てならで、聞こえ知らせばや。 あしわかの浦にみ…
【古文】 十月に朱雀院の行幸あるべし。 舞人など、やむごとなき家の子ども、 上達部、殿上人どもなども、その方につきづきしきは、 みな選らせたまへれば、親王達、大臣よりはじめて、 とりどりの才ども習ひたまふ、いとまなし。 山里人にも、久しく訪れた…
【古文】 「乱り心地は、いつともなくのみはべるが、 限りのさまになりはべりて、いとかたじけなく、 立ち寄らせたまへるに、みづから聞こえさせぬこと。 のたまはすることの筋、 たまさかにも思し召し変はらぬやうはべらば、 かくわりなき齢過ぎはべりて、 …
【古文】 七月になりてぞ参りたまひける。 めづらしうあはれにて、 いとどしき御思ひのほど限りなし。 すこしふくらかになりたまひて、 うちなやみ、面痩せたまへる、 はた、げに似るものなくめでたし。 例の、明け暮れ、こなたにのみおはしまして、 御遊び…
〈古文〉 くらぶの山に宿りも取らまほしげなれど、 あやにくなる短夜にて、あさましう、なかなかなり。 「見てもまた逢ふ夜まれなる夢のうちに やがて紛るる我が身ともがな」 と、むせかへりたまふさまも、さすがにいみじければ、 「世語りに人や伝へむたぐ…
〈古文〉 「少納言の乳母と言ふ人あべし。尋ねて、詳しう語らへ」 などのたまひ知らす。 「さも、かからぬ隈なき御心かな。 さばかりいはけなげなりしけはひを」 と、まほならねども、見しほどを思ひやるもをかし。 わざと、かう御文あるを、僧都もかしこま…
〈古文〉 「まれまれは、あさましの御ことや。 訪はぬ、など言ふ際は、 異にこそはべるなれ。心憂くものたまひなすかな。 世とともにはしたなき御もてなしを、 もし、思し直る折もやと、 とざまかうさまに試みきこゆるほど、 いとど思ほし疎むなめりかし。 …
〈古文〉 御車にたてまつるほど、大殿より、 「いづちともなくて、おはしましにけること」とて、 御迎への人びと、君達などあまた参りたまへり。 頭中将、左中弁、さらぬ君達も慕ひきこえて、 「かうやうの御供には、仕うまつりはべらむ、 と思ひたまふるを…
【源氏物語 65 第5帖 若紫9】〈古文〉 明けゆく空は、 いといたう霞みて、山の鳥どもそこはかとなうさへづりあひたり。 名も知らぬ木草の花どもも、いろいろに散りまじり、 錦を敷けると見ゆるに、鹿のたたずみ歩くも、 めづらしく見たまふに、悩ましさも紛…
【源氏物語 64 第5帖 若紫 8】〈古文〉 「げに、若やかなる人こそうたてもあらめ、 まめやかにのたまふ、かたじけなし」 とて、ゐざり寄りたまへり。 「うちつけに、あさはかなりと、御覧ぜられぬべきついでなれど、 心にはさもおぼえはべらねば。仏はおのづ…
【源氏物語 63 第5帖 若紫7】〈古文〉 内にも、人の寝ぬけはひしるくて、いと忍びたれど、 数珠の脇息に引き鳴らさるる音ほの聞こえ、 なつかしううちそよめく音なひ、あてはかなりと聞きたまひて、 ほどもなく近ければ、外に立てわたしたる屏風の中を、 す…
「かの大納言の御女、 ものしたまふと聞きたまへしは。 好き好きしき方にはあらで、 まめやかに聞こゆるなり」 と、推し当てにのたまへば、 「女ただ一人はべりし。 亡せて、この十余年にやなりはべりぬらむ。 故大納言、内裏にたてまつらむなど、 かしこう…
立つ音すれば、帰りたまひぬ。 「あはれなる人を見つるかな。 かかれば、この好き者どもは、 かかる歩きをのみして、 よくさるまじき人をも見つくるなりけり。 たまさかに立ち出づるだに、 かく思ひのほかなることを見るよ」と、 をかしう思す。 「さても、…
「雀の子を犬君が逃がしつる。 伏籠のうちに籠めたりつるものを」 とて、いと口惜しと思へり。このゐたる大人、 「例の、心なしの、かかるわざをして、 さいなまるるこそ、いと心づきなけれ。 いづ方へかまかりぬる。いとをかしう、 やうやうなりつるものを…
「いで、さ言ふとも、田舎びたらむ。 幼くよりさる所に生ひ出でて、 古めいたる親にのみ従ひたらむは」 「母こそゆゑあるべけれ。 よき若人、童など、都のやむごとなき所々より、 類にふれて尋ねとりて、 まばゆくこそもてなすなれ」 「情けなき人なりて行か…
君は、 行ひしたまひつつ、日たくるままに、 いかならむと思したるを、 「とかう紛らはさせたまひて、 思し入れぬなむ、よくはべる」 と聞こゆれば、後への山に立ち出でて、 京の方を見たまふ。 はるかに霞みわたりて、 四方の梢そこはかとなう煙りわたれる…
瘧病にわづらひたまひて、 よろづにまじなひ加持など参らせたまへど、 しるしなくて、あまたたびおこりたまひければ、 ある人、 「北山になむ、なにがし寺といふ所に、 かしこき行ひ人はべる。 去年の夏も世におこりて、 人びとまじなひわづらひしを、 やが…