〈古文〉
御車にたてまつるほど、大殿より、
「いづちともなくて、おはしましにけること」とて、
御迎への人びと、君達などあまた参りたまへり。
頭中将、左中弁、さらぬ君達も慕ひきこえて、
「かうやうの御供には、仕うまつりはべらむ、
と思ひたまふるを、あさましく、おくらさせたまへること」
と恨みきこえて、
「いといみじき花の蔭に、しばしもやすらはず、
立ち帰りはべらむは、飽かぬわざかな」
とのたまふ。
岩隠れの苔の上に並みゐて、土器参る。
落ち来る水のさまなど、ゆゑある滝のもとなり。
頭中将、懐なりける笛取り出でて、吹きすましたり。
弁の君、扇はかなううち鳴らして、
「豊浦の寺の、西なるや」
と歌ふ。
人よりは異なる君達を、源氏の君、いといたううち悩みて、
岩に寄りゐたまへるは、たぐひなくゆゆしき御ありさまにぞ、
何ごとにも目移るまじかりける。
僧都、琴をみづから持て参りて、
「これ、ただ御手一つあそばして、
同じうは、山の鳥もおどろかしはべらむ」
と切に聞こえたまへば、
「乱り心地、いと堪へがたきものを」
と聞こえたまへど、けに憎からずかき鳴らして、皆立ちたまひぬ。
飽かず口惜しと、言ふかひなき法師、童べも、涙を落としあへり。
まして、内には、年老いたる尼君たちなど、
まださらにかかる人の御ありさまを見ざりつれば、
「この世のものともおぼえたまはず」
と聞こえあへり。
僧都も、
「あはれ、何の契りにて、かかる御さまながら、
いとむつかしき日本の末の世に生まれたまへらむと見るに、
いとなむ悲しき」
とて、目おしのごひたまふ。
この若君、幼な心地に、
「めでたき人かな」
と見たまひて、
「宮の御ありさまよりも、まさりたまへるかな」
などのたまふ。
「さらば、かの人の御子になりておはしませよ」
と聞こゆれば、うちうなづきて、
「いとようありなむ」
と思したり。
雛遊びにも、絵描いたまふにも、
「源氏の君」と作り出でて、
きよらなる衣着せ、かしづきたまふ。
〈現代語訳〉
ちょうど源氏が車に乗ろうとするころに、 左大臣家から、
どこへ行くともなく源氏が京を出かけて行ったので、
その迎えとして家司《けいし》の人々や、
子息たちなどがおおぜい出て来た。
頭中将《とうのちゅうじょう》、
左中弁《さちゅうべん》
またそのほかの公達《きんだち》もいっしょに来たのである。
「こうした御旅行などにはぜひお供をしようと思っていますのに、
お知らせがなくて」
などと恨んで、
「美しい花の下で遊ぶ時間が許されないで
すぐにお帰りのお供をするのは惜しくてならないことですね」
とも言っていた。
岩の横の青い苔《こけ》の上に新しく来た公達は並んで、
また酒盛りが始められたのである。
前に流れた滝も情趣のある場所だった。
頭中将は懐《ふところ》に入れてきた笛を出して吹き澄ましていた。
弁は扇拍子をとって、
「葛城《かつらぎ》の寺の前なるや、豊浦《とよら》の寺の西なるや」
という歌を歌っていた。
この人たちは決して平凡な若い人ではないが、
悩ましそうに岩へよりかかっている源氏の美に比べてよい人は
だれもなかった。
またわざわざ笙《しょう》の笛を持ち込んで来た風流好きもあった。
僧都が自身で琴《きん》(七|絃《げん》の唐風の楽器)を 運んで来て、
「これをただちょっとだけでもお弾きくだすって、
それによって山の鳥に音楽の何であるかを
知らせてやっていただきたい」
こう熱望するので、
「私はまだ病気に疲れていますが」
と言いながらも、
源氏が快く少し弾いたのを最後として皆帰って行った。
名残《なごり》惜しく思って山の僧俗は皆涙をこぼした。
家の中では年を取った尼君主従が
まだ源氏のような人に出逢《であ》ったことのない人たちばかりで、
その天才的な琴の音をも現実の世のものでないと評し合った。
僧都も、
「何の約束事でこんな末世にお生まれになって
人としてのうるさい束縛や干渉を
お受けにならなければならないかと
思ってみると悲しくてならない」
と源氏の君のことを言って涙をぬぐっていた。
兵部卿《ひょうぶきょう》の宮の姫君は
子供心に 美しい人であると思って、
「宮様よりも御様子がごりっぱね」
などとほめていた。
「ではあの方のお子様におなりなさいまし」
と女房が言うとうなずいて、
そうなってもよいと思う顔をしていた。
それからは人形遊びをしても絵をかいても
源氏の君というのをこしらえて、
それにはきれいな着物を着せて大事がった。
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