源氏物語 第2帖 箒木(ははきぎ)
源氏 「昨日待ち暮らししを。 なほあひ思ふまじきなめり」 と怨じたまへば、 顔うち赤めてゐたり。 源氏 「いづら」 とのたまふに、しかしかと申すに、 源氏 「言ふかひなのことや。 あさまし」 とて、またも賜へり。 源氏 「あこは知らじな。 その伊予の翁…
このほどは大殿にのみおはします。 なほいとかき絶えて、 思ふらむことのいとほしく御心にかかりて、 苦しく思しわびて、 紀伊守を召したり。 源氏 「かの、ありし中納言の子は、得させてむや。 らうたげに見えしを。 身近く使ふ人にせむ。 主上にも我奉らむ…
鶏も鳴きぬ。 人びと起き出でて、 供 「いといぎたなかりける夜かな」 供人 「御車ひき出でよ」 など言ふなり。 守も出で来て、 紀伊守 「女などの御方違へこそ。 夜深く急がせたまふべきかは」 など言ふもあり。 君は、 またかやうのついであらむこともいと…
酔ひすすみて、 皆人びと簀子に臥しつつ、静まりぬ。 君は、とけても寝られたまはず、 いたづら臥しと思さるるに御目覚めて、 この北の障子のあなたに人のけはひするを、 「こなたや、かくいふ人の隠れたる方ならむ、 あはれや」 と御心とどめて、 やをら起…
女房 「いといたうまめだちて。 まだきに、やむごとなきよすが定まりたまへるこそ、 さうざうしかめれ」 女房 「されど、さるべき隈には、よくこそ、隠れ歩きたまふなれ」 など言ふにも、 思すことのみ心にかかりたまへば、まづ胸つぶれて、 「かやうのつい…
暗くなるほどに、 女房 「今宵、中神、内裏よりは塞がりてはべりけり」 と聞こゆ。 源氏 「さかし、例は忌みたまふ方なりけり。 二条の院にも同じ筋にて、いづくにか違へむ。 いと悩ましきに」 とて大殿籠もれり。 「いと悪しきことなり」 と、これかれ聞こ…
左馬頭 「すべて男も女も悪ろ者は、 わづかに知れる方のことを残りなく見せ尽くさむと思へるこそ、 いとほしけれ。 三史五経、道々しき方を、 明らかに悟り明かさむこそ、愛敬なからめ、などかは、 女といはむからに、世にあることの公私につけて、 むげに知…
頭中将 中将 「なにがしは、痴者の物語をせむ」 とて、 「いと忍びて見そめたりし人の、 さても見つべかりしけはひなりしかば、 ながらふべきものとしも思ひたまへざりしかど、 馴れゆくままに、あはれとおぼえしかば、 絶え絶え忘れぬものに思ひたまへしを…
左馬頭 「さて、また同じころ、まかり通ひし所は、 人も立ちまさり心ばせまことにゆゑありと見えぬべく、 うち詠み、走り書き、掻い弾く爪音、手つき口つき、 みなたどたどしからず、 見聞きわたりはべりき。 見る目もこともなくはべりしかば、 このさがな者…
憂きふしを 心ひとつに 数へきて こや君が手を 別るべきをり など、言ひしろひはべりしかど、 まことには変るべきこととも思ひたまへずながら、 日ごろ経るまで消息も遣はさず、 あくがれまかり歩くに、 臨時の祭の調楽に、 夜更けていみじう霙降る夜、 これ…
左馬頭 「はやう、まだいと下臈にはべりし時、 あはれと思ふ人はべりき。 聞こえさせつるやうに、 容貌などいとまほにもはべらざりしかば、 若きほどの好き心には、 この人をとまりにとも思ひとどめはべらず、 よるべとは思ひながら、 さうざうしくて、 とか…
ともかくも、違ふべきふしあらむを、 のどやかに見忍ばむよりほかに、 ますことあるまじかりけり」 馬頭、物定めの博士になりて、ひひらきゐたり。 中将は、このことわり聞き果てむと、 心入れて、あへしらひゐたまへり。 左馬頭 「よろづのことによそへて思…
左馬頭 「今は、ただ、品にもよらじ。 容貌をばさらにも言はじ。 いと口惜しくねぢけがましきおぼえだになくは、 ただひとへにものまめやかに、 静かなる心のおもむきならむよるべをぞ、 つひの頼み所には思ひおくべかりける。 あまりのゆゑよし心ばせうち添…
頭中将 「別人の言はむやうに、心得ず仰せらる」と、中将憎む。 左馬頭 「元の品、時世のおぼえうち合ひ、 やむごとなきあたりの内々のもてなしけはひ後れたらむは、 さらにも言はず、何をしてかく生ひ出でけむと、 言ふかひなくおぼゆべし。 うち合ひてすぐ…
「そこにこそ多く集へたまふらめ。 すこし見ばや。 さてなむ、この厨子も心よく開くべき」 とのたまへば、 〔頭中将〕 「御覧じ所あらむこそ、難くはべらめ」 など聞こえたまふついでに、 「女の、これはしもと難つくまじきは、難くもあるかなと、 やうやう…
光る源氏、名のみことことしう、 言ひ消たれたまふ咎多かなるに、 いとど、かかる好きごとどもを、 末の世にも聞き伝へて、軽びたる名をや流さむと、 忍びたまひける隠ろへごとをさへ、 語り伝へけむ人のもの言ひさがなさよ。 さるは、いといたく世を憚り、 …