源氏物語 第4帖 夕顔(ゆうがお)
伊予介、神無月の朔日ごろに下る。 女房の下らむにとて、 たむけ心ことにせさせたまふ。 また、内々にもわざとしたまひて、 こまやかにをかしきさまなる櫛、扇多くして、 幣などわざとがましくて、 かの小袿も遣はす。 「逢ふまでの形見ばかりと見しほどに …
かの人の四十九日、 忍びて比叡の法華堂にて、 事そがず、装束よりはじめて、 さるべきものども、 こまかに、誦経などせさせたまひぬ。 経、仏の飾りまでおろかならず、 惟光が兄の阿闍梨、 いと尊き人にて、二なうしけり。 御書の師にて、 睦しく思す文章博…
かの、伊予の家の小君、参る折あれど、 ことにありしやうなる言伝てもしたまはねば、 憂しと思し果てにけるを、いとほしと思ふに、 かくわづらひたまふを聞きて、 さすがにうち嘆きけり。 遠く下りなどするを、さすがに心細ければ、 思し忘れぬるかと、試み…
「幼き人惑はしたりと、 中将の愁へしは、さる人や」 と問ひたまふ。 「しか。一昨年の春ぞ、 ものしたまへりし。女にて、 いとらうたげになむ」 と語る。 「さて、いづこにぞ。人にさとは知らせで、 我に得させよ。 あとはかなく、いみじと思ふ御形見に、 …
大殿も経営したまひて、 大臣、日々に渡りたまひつつ、 さまざまのことをせさせたまふ、 しるしにや、二十余日、 いと重くわづらひたまひつれど、 ことなる名残のこらず、 おこたるさまに見えたまふ。 穢らひ忌みたまひしも、 一つに満ちぬる夜なれば、 おぼ…
惟光、 「夜は、明け方になりはべりぬらむ。 はや帰らせたまひなむ」 と聞こゆれば、返りみのみせられて、 胸もつと塞がりて出でたまふ。 道いと露けきに、いとどしき朝霧に、 いづこともなく惑ふ心地したまふ。 ありしながらうち臥したりつるさま、 うち交…
「便なしと思ふべけれど、 今一度、かの亡骸を見ざらむが、 いといぶせかるべきを、馬にてものせむ」 とのたまふを、いとたいだいしきこととは思へど、 「さ思されむは、いかがせむ。 はや、おはしまして、 夜更けぬ先に帰らせおはしませ」 と申せば、 この…
「かく、こまかにはあらで、 ただ、おぼえぬ穢らひに触れたるよしを、 奏したまへ。 いとこそたいだいしくはべれ」 と、つれなくのたまへど、 心のうちには、 言ふかひなく悲しきことを思すに、 御心地も悩ましければ、 人に目も見合せたまはず。 蔵人弁を召…
この人をえ抱きたまふまじければ、 上蓆におしくくみて、 惟光乗せたてまつる。 いとささやかにて、疎ましげもなく、 らうたげなり。 したたかにしもえせねば、 髪はこぼれ出でたるも、 目くれ惑ひて、あさましう悲し、 と思せば、 なり果てむさまを見むと思…
火はほのかにまたたきて、 母屋の際に立てたる屏風の上、 ここかしこの隈々しくおぼえたまふに、 物の足音、 ひしひしと踏み鳴らしつつ、 後ろより寄り来る心地す。 「惟光、とく参らなむ」 と思す。 ありか定めぬ者にて、 ここかしこ尋ねけるほどに、 夜の…
「いとうたて、乱り心地の悪しうはべれば、 うつぶし臥してはべるや。 御前にこそわりなく思さるらめ」 と言へば、 「そよ。などかうは」 とて、かい探りたまふに、 息もせず。 引き動かしたまへど、なよなよとして、 我にもあらぬさまなれば、 「いといたく…
「己がいとめでたしと見たてまつるをば、 尋ね思ほさで、 かく、ことなることなき人を率ておはして、 時めかしたまふこそ、いとめざましくつらけれ」 とて、この御かたはらの人をかき起こさむとす、 と見たまふ。 物に襲はるる心地して、 おどろきたまへれば…
「夕露に紐とく花は玉鉾の たよりに見えし縁にこそありけれ 露の光やいかに」 とのたまへば、後目に見おこせて、 「光ありと見し夕顔のうは露は たそかれ時のそら目なりけり」 とほのかに言ふ。 をかしと思しなす。 げに、うちとけたまへるさま、 世になく、…
預り召し出づるほど、 荒れたる門の忍ぶ草茂りて見上げられたる、 たとしへなく木暗し。 霧も深く、露けきに、 簾をさへ上げたまへれば、 御袖もいたく濡れにけり。 「まだかやうなることを慣らはざりつるを、 心尽くしなることにもありけるかな。 いにしへ…
白き袷、薄色のなよよかなるを重ねて、 はなやかならぬ姿、 いとらうたげにあえかなる心地して、 そこと取り立ててすぐれたることもなけれど、 細やかにたをたをとして、 ものうち言ひたるけはひ、 「あな、心苦し」と、 ただいとらうたく見ゆ。 心ばみたる…
君も、 「かくうらなくたゆめてはひ隠れなば、 いづこをはかりとか、 我も尋ねむ。 かりそめの隠れ処と、 はた見ゆめれば、 いづ方にもいづ方にも、 移ろひゆかむ日を、いつとも知らじ」 と思すに、 追ひまどはして、 なのめに思ひなしつべくは、 ただかばか…
「たしかにその車をぞ見まし」 とのたまひて、 「もし、かのあはれに忘れざりし人にや」と、 思ほしよるも、 いと知らまほしげなる御気色を見て、 「私の懸想もいとよくしおきて、 案内も残るところなく見たまへおきながら、 ただ、我れどちと知らせて、 物…
霧のいと深き朝、 いたくそそのかされたまひて、 ねぶたげなる気色に、 うち嘆きつつ出でたまふを、 中将のおもと、御格子一間上げて、 見たてまつり送りたまへ、とおぼしく、 御几帳引きやりたれば、 御頭もたげて見出だしたまへり。 前栽の色々乱れたるを…
「もし、見たまへ得ることもやはべると、 はかなきついで作り出でて、 消息など遣はしたりき。 書き馴れたる手して、口とく返り事などしはべりき。 いと口惜しうはあらぬ若人どもなむはべるめる」 と聞こゆれば、 「なほ言ひ寄れ。尋ね寄らでは、さうざうし…
「さらば、その宮仕人ななり。 したり顔にもの馴れて言へるかな」 と、 「めざましかるべき際にやあらむ」 と思せど、さして聞こえかかれる心の、 憎からず過ぐしがたきぞ、 例の、この方には重からぬ御心なめるかし。 御畳紙にいたうあらぬさまに書き変へた…
「日ごろ、おこたりがたくものせらるるを、 安からず嘆きわたりつるに、 かく、世を離るるさまにものしたまへば、 いとあはれに口惜しうなむ。 命長くて、なほ位高くなど見なしたまへ。 さてこそ、九品の上にも、障りなく生まれたまはめ。 この世にすこし恨…
六条わたりの御忍び歩きのころ、 内裏よりまかでたまふ中宿に、 大弐の乳母のいたくわづらひて尼になりにける、 とぶらはむとて、 五条なる家尋ねておはしたり。 御車入るべき門は鎖したりければ、 人して惟光召させて、 待たせたまひけるほど、 むつかしげ…