【古文】
「何か、かう繰り返し聞こえ知らする心のほどを、
つつみたまふらむ。
その言ふかひなき御心のありさまの、
あはれにゆかしうおぼえたまふも、契りことになむ、
心ながら思ひ知られける。
なほ、人伝てならで、聞こえ知らせばや。
あしわかの浦にみるめはかたくとも
こは立ちながらかへる波かは
めざましからむ」
とのたまへば、
「げにこそ、いとかしこけれ」
とて、
「寄る波の心も知らでわかの浦に
玉藻なびかむほどぞ浮きたる
わりなきこと」
と聞こゆるさまの馴れたるに、すこし罪ゆるされたまふ。
「なぞ越えざらむ」と、
うち誦じたまへるを、身にしみて若き人びと思へり。
君は、上を恋ひきこえたまひて泣き臥したまへるに、
御遊びがたきどもの、
「直衣着たる人のおはする、宮のおはしますなめり」
と聞こゆれば、起き出でたまひて、
「少納言よ。直衣着たりつらむは、いづら。
宮のおはするか」
とて、寄りおはしたる御声、いとらうたし。
「宮にはあらねど、また思し放つべうもあらず。こち」
とのたまふを、恥づかしかりし人と、さすがに聞きなして、
悪しう言ひてけりと思して、乳母にさし寄りて、
「いざかし、ねぶたきに」
とのたまへば、
「今さらに、など忍びたまふらむ。
この膝の上に大殿籠もれよ。今すこし寄りたまへ」
とのたまへば、乳母の、
「さればこそ。かう世づかぬ御ほどにてなむ」
とて、押し寄せたてまつりたれば、
何心もなくゐたまへるに、
手をさし入れて探りたまへれば、
なよらかなる御衣に、
髪はつやつやとかかりて、
末のふさやかに探りつけられたる、
いとうつくしう思ひやらる。
手をとらへたまへれば、うたて例ならぬ人の、
かく近づきたまへるは、恐ろしうて、
「寝なむ、と言ふものを」
とて、強ひて引き入りたまふにつきてすべり入りて、
「今は、まろぞ思ふべき人。な疎みたまひそ」
とのたまふ。
乳母、
「いで、あなうたてや。ゆゆしうもはべるかな。
聞こえさせ知らせたまふとも、
さらに何のしるしもはべらじものを」
とて、苦しげに思ひたれば‥
【現代文】
「そんなことはどうでもいいじゃありませんか、
私が繰り返し繰り返しこれまで申し上げてあることを
なぜ無視しようとなさるのですか。
その幼稚な方を私が好きでたまらないのは、
こればかりは前生《ぜんしょう》の縁に違いないと、
それを私が客観的に見ても思われます。
許してくだすって、
この心持ちを直接女王さんに話させてくださいませんか。
『あしわかの 浦にみるめは 難《かた》くとも
こは立ちながら 帰る波かは』
私をお見くびりになってはいけません」
源氏がこう言うと、
「それはもうほんとうにもったいなく思っているのでございます。
『寄る波の 心も知らで 和歌の浦に
玉藻《たまも》なびかん ほどぞ浮きたる』
このことだけは御信用ができませんけれど」
物馴《な》れた少納言の応接のしように、
源氏は何を言われても不快には思われなかった。
「年を経て など越えざらん 逢坂《あふさか》の関」
という古歌を口ずさんでいる源氏の美音に
若い女房たちは酔ったような気持ちになっていた。
女王は今夜もまた祖母を恋しがって泣いていた時に、
遊び相手の童女が、
「直衣《のうし》を着た方が来ていらっしゃいますよ。
宮様が来ていらっしゃるのでしょう」
と言ったので、起きて来て、
「少納言、直衣着た方どちら、宮様なの」
こう言いながら 乳母《めのと》のそばへ
寄って来た声がかわいかった。
これは父宮ではなかったが
やはり深い愛を小女王に持つ源氏であったから、
心がときめいた。
「こちらへいらっしゃい」
と言ったので、
父宮でなく源氏の君であることを知った女王は、
さすがにうっかりとしたことを言ってしまったと思うふうで、
乳母のそばへ寄って、
「さあ行こう。私は眠いのだもの」
と言う。
「もうあなたは私に御遠慮などしないでもいいんですよ。
私の膝《ひざ》の上へお寝《やす》みなさい」
と源氏が言った。
「お話しいたしましたとおりでございましょう。
こんな赤様なのでございます」
乳母に源氏のほうへ押し寄せられて、
女王はそのまま無心にすわっていた。
源氏が御簾《みす》の下から手を入れて探ってみると
柔らかい着物の上に、
ふさふさとかかった端の厚い髪が
手に触れて美しさが思いやられるのである。
手をとらえると、
父宮でもない男性の近づいてきたことが恐ろしくて、
「私、眠いと言っているのに」
と言って手を引き入れようとするのについて
源氏は御簾の中へはいって来た。
「もう私だけがあなたを愛する人なんですよ。
私をお憎みになってはいけない」
源氏はこう言っている。
少納言が、
「よろしくございません。たいへんでございます。
お話しになりましても
何の効果《ききめ》もございませんでしょうのに」
と困ったように言う。
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