google.com, pub-8944455872984568, DIRECT, f08c47fec0942fa0

源氏物語&古典文学を聴く🪷〜少納言チャンネル&古文🌿

少納言チャンネル🌷は、古典や漢文、文学の朗読を動画にしています。 🌼 音読で脳トレ&リラックスしましょ🍀

失意の帝🍂【源氏物語 桐壺8】朝に起きさせたまふとても、「明くるも知らで」と思し出づるにも、なほ朝政は怠らせたまひぬべかめり。

🪷月も入りぬ。

 「雲の上も涙にくるる秋の月

  いかですむらむ浅茅生の宿」

思し召しやりつつ、灯火をかかげ尽くして起きおはします。

右近の司の宿直奏の声聞こゆるは、丑になりぬるなるべし。

人目を思して、夜の御殿に入らせたまひても、

まどろませたまふことかたし。

 

朝に起きさせたまふとても、

「明くるも知らで」と思し出づるにも、

なほ朝政は怠らせたまひぬべかめり。

ものなども聞こし召さず、

朝餉のけしきばかり触れさせたまひて、

大床子の御膳などは、

いと遥かに思し召したれば、

陪膳にさぶらふ限りは、

心苦しき御気色を見たてまつり嘆く。

すべて、近うさぶらふ限りは、男女、

「いとわりなきわざかな」と言ひ合はせつつ嘆く。

 

「さるべき契りこそはおはしましけめ。

そこらの人の誹り、恨みをも憚らせたまはず、

この御ことに触れたることをば、道理をも失はせたまひ、

今はた、かく世の中のことをも、

思ほし捨てたるやうになりゆくは、

いとたいだいしきわざなり」と、

人の朝廷の例まで引き出で、ささめき嘆きけり。

 

月日経て、若宮参りたまひぬ。

いとどこの世のものならず清らにおよすげたまへれば、

いとゆゆしう思したり。

明くる年の春、坊定まりたまふにも、

いと引き越さまほしう思せど、

御後見すべき人もなく、

また世のうけひくまじきことなりければ、

なかなか危く思し憚りて、

色にも出ださせたまはずなりぬるを、

「さばかり思したれど、限りこそありけれ」と、

世人も聞こえ、女御も御心落ちゐたまひぬ。

 

かの御祖母北の方、慰む方なく思し沈みて、

おはすらむ所にだに尋ね行かむと願ひたまひししるしにや、

つひに亡せたまひぬれば、

またこれを悲しび思すこと限りなし。

御子六つになりたまふ年なれば、

このたびは思し知りて恋ひ泣きたまふ。

年ごろ馴れ睦びきこえたまひつるを、

見たてまつり置く悲しびをなむ、

返す返すのたまひける。

 

今は内裏にのみさぶらひたまふ。

七つになりたまへば、読書始めなどせさせたまひて、

世に知らず聡う賢くおはすれば、

あまり恐ろしきまで御覧ず。

 

「今は誰れも誰れもえ憎みたまはじ。

 母君なくてだにらうたうしたまへ」とて、

弘徽殿などにも渡らせたまふ御供には、

やがて御簾の内に入れたてまつりたまふ。

いみじき武士、仇敵なりとも、

見てはうち笑まれぬべきさまのしたまへれば、

えさし放ちたまはず。

 

女皇女たち二ところ、この御腹におはしませど、

なずらひたまふべきだにぞなかりける。

御方々も隠れたまはず、

今よりなまめかしう恥づかしげにおはすれば、

いとをかしううちとけぬ遊び種に、

誰れも誰れも思ひきこえたまへり。

わざとの御学問はさるものにて、

琴笛の音にも雲居を響かし、

すべて言ひ続けば、ことごとしう、

うたてぞなりぬべき人の御さまなりける。

 

 🪷月も落ちてしまった。

『雲の上も 涙にくるる 秋の月

 いかですむらん 浅茅生《あさぢふ》の宿』

命婦が御報告した故人の家のことを

なお 帝は想像あそばしながら起きておいでになった。  

右近衛府《うこんえふ》の士官が

宿直者の名を披露するのをもってすれば 午前二時になったのであろう。

人目をおはばかりになって御寝室へおはいりになってからも

安眠を得たもうことはできなかった。

 

朝のお目ざめにもまた、

夜明けも知らずに語り合った昔の御追憶がお心を占めて、

寵姫の在った日も亡いのちも 朝の政務はお怠りになることになる。

お食欲もない。

簡単な御朝食はしるしだけお取りになるが、

帝王の御朝餐《ちょうさん》として用意される

大床子《だいしょうじ》のお料理などは

召し上がらないものになっていた。

それには殿上役人のお給仕がつくのであるが、

それらの人は皆この状態を歎《なげ》いていた。

すべて側近する人は男女の別なしに困ったことであると歎いた。

 

よくよく深い前生の御縁で、

その当時は世の批難も後宮の恨みの声もお耳には留まらず、

その人に関することだけは正しい判断を失っておしまいになり、

また死んだあとでは

こうして悲しみに沈んでおいでになって政務も何もお顧みにならない、

国家のためによろしくないことであるといって、

支那《しな》の歴朝の例までも引き出して言う人もあった。

 

幾月かののちに第二の皇子が宮中へおはいりになった。

ごくお小さい時ですら

この世のものとはお見えにならぬ御美貌の備わった方であったが、

今はまたいっそう輝くほどのものに見えた。

その翌年立太子のことがあった。

帝の思召《おぼしめ》しは第二の皇子にあったが、

だれという後見の人がなく、

まただれもが肯定しないことであるのを悟っておいでになって、

かえってその地位は若宮の前途を

危険にするものであるとお思いになって、

御心中をだれにもお洩《も》らしにならなかった。

東宮におなりになったのは第一親王である。

この結果を見て、

あれほどの御愛子でも

やはり太子にはおできにならないのだと世間も言い、

弘徽殿《こきでん》の女御《にょご》も安心した。

 

その時から宮の外祖母の未亡人は 落胆して

更衣のいる世界へ行くことのほかには希望もないと言って

一心に御仏《みほとけ》の来迎《らいごう》を求めて、

とうとう亡くなった。

帝はまた若宮が祖母を失われたことでお悲しみになった。

これは皇子が六歳の時のことであるから、

今度は母の更衣の死に逢った時とは違い、

皇子は祖母の死を知ってお悲しみになった。

今まで始終お世話を申していた宮と

お別れするのが悲しいということばかりを

未亡人は言って死んだ。

 

それから若宮はもう宮中にばかりおいでになることになった。

七歳の時に書初《ふみはじ》めの式が行なわれて学問をお始めになったが、

皇子の類のない聡明《そうめい》さに帝はお驚きになることが多かった。

「もうこの子をだれも憎むことができないでしょう。

 母親のないという点だけででもかわいがっておやりなさい」  

と帝はお言いになって、

弘徽殿へ昼間おいでになる時もいっしょにおつれになったりして

そのまま御簾《みす》の中にまでもお入れになった。

どんな強さ一方の武士だっても仇敵《きゅうてき》だっても

この人を見ては笑《え》みが自然にわくであろうと思われる

美しい少童《しょうどう》でおありになったから、

女御も愛を覚えずにはいられなかった。

 

この女御は東宮のほかに姫宮をお二人お生みしていたが、

その方々よりも第二の皇子のほうがおきれいであった。

姫宮がたもお隠れにならないで賢い遊び相手としてお扱いになった。

学問はもとより音楽の才も豊かであった。

言えば不自然に聞こえるほどの天才児であった 🌸

🪷ぜひこちらもご覧ください↓

少納言のホームページ 源氏物語&古典 syounagon-web ぜひご覧ください🪷

https://syounagon-web-1.jimdosite.com

 

🪷聴く古典文学 少納言チャンネルは、聴く古典文学動画。チャンネル登録お願いします🪷

 

🪷第1帖 桐壺(きりつぼ)ぜひ ご覧ください🪷

第一帖 桐壺(きりつぼ)源氏物語 カテゴリーの記事一覧 - 源氏物語&古典🪷〜笑う門には福来る🌸少納言日記🌸